ハム蔵の冒険

 うわ~人生はこの回し車のように目まぐるしくかつ無意味なものである。ただ回っていると少し楽しいかもしれない。そんなことでも考えてるのかハム蔵は回し車を回し回し続けている。ハム蔵が家にやってきてケージに入ってからしばらくはキョロキョロと自分の家となる箱を見回し、壁に沿って外周を確かめる。ケージのすべてを回るのに、一日もかからなかったらしく(小さい生き物の時間は短く、そしてめちゃくちゃ早いのだ)、飽きてからは抜け道を探し始める。半透明のケージの外には俺のようなでかい生き物がノシノシ歩いているように、でっかいでっかい世界が広がっているのだ。俺の世界がこんなに狭い訳はない、とハム蔵は潜る掻く、流体みたいな身体を極限まで細くする。もう水だ、と本人が思っているかはわからんがミミズぐらいには細くなる。しかしケージの外にはけして出られんことを悟る(もちろん俺がそうしたせいだ)と俺が君が回してくれますように、と祈りをこめて設置しておいった回し車を回し始めたというわけだ。俺は祈りが届いたので、これ以上なく喜んだ。わけだが、ハム蔵は俺にはもうこれしかないんだよと言わんばかりに回し車を回し続けた。そして、俺の眠りの時間のその後も続いた。深夜になってもカラカラカラカラ回し続けるので、俺は自分の祈りを呪いに変えて、逆十字を掲げる。しかしハム蔵も暇なんだろうな、と申し訳なく思う気持ちもあってイヤホンをつけて眠った。ある日、ハム蔵に足りないのは友達だろう、誰だってそうだよなとハムスターも一匹迎え入れることにした。ハムスターのハム太郎。かわいいハム太郎を、しかしハム蔵は一週間も立たないうちに食べてしまったのだった。その後でハムスターは一緒のケージに入れるとは輪針争いを起こして共食いをするという話を聞いたのだったが、かわいいハム太郎が血塗れた骨や肉や皮に変わった姿を見て、ハム蔵を攻める気持ちにもなれず、外に埋めた後、少し泣いたのだった。そしてハム蔵はメスだった。
 ネオ四国がでかい壁とともに崩壊してから新しく建ったネオネオ四国は、讃岐山脈よりも高い壁が一部なくなったと言っても、それでも日当たりの悪さは相変わらずで、なかなか外に出たがる人もおらず、喜んでいるのはごく一部の人たちだけであった。突如四国をぐるりと囲むように現れた大きな壁のことを人はウォール・マリアと呼んでいたけれど、壁の原因はわかりやすく外との不仲だった。香川は岡山と、徳島は兵庫と、愛媛は広島と、高知はどこか南の島と。そうしてできたネオ四国はうまくいくわけないだろ、とだれもが思っていたけれど、意外と島地方根性とやらで生活インフラをすべて整え、食糧自給もネオ四国内で100%近く、ネットも飛行機も違うレイヤーで働く機構からはすべて解き放たれた。海の向こうと仲良くできない地方が結束したところで隣県と仲良くできない気もするものだが、それでも人は仲よくし、仲良くしたのはでかい壁だった。でかい壁があると人はその内側で過ごすことに慣れ、ブロックが重なり合うように、人の心もでかい壁みたいになった。娯楽の少なさがネオ四国での一つの問題だったので、ネオ四国政府は全世帯にペットを配ることになった。犬やウサギはでかすぎるだろうという計らいで、動物はハムスターに決定した。こうしてハム蔵が我が家に来た。
 ハム蔵がハム太郎を食べてしまってから(メスでもハム蔵はハム蔵だ、いいだろ)、ハム蔵が今までカラカラカラカラと回していたあの悩みのタネであった回し車の遊び方が変わった。しばらくはカラカラといつもどおりバカみたいに回しているのに、回し車を回しているのに、勢いがついてきたらいきなり足を止める。そうすると遠心力によって、身体は回し車とともにグルグルと回し続ける。ハム蔵は回し車と一体化し、そのまま回り続ける。回し車を回す者はハム蔵だったが、そのハム蔵は回し車となり、その回し車もハム蔵でお互いがお互いを回し続ける。しばらくすると勢いがなくなり止まる。そうするとハム蔵と回し車は分離し、再び回し車を回し始める。一体化、分離を恋人みたいに繰り返し、しばらくすると急に倒れるように眠りつく。回り続けて三半規管がバグり、脳がシェイクグルグルミキサー状態でグロッキーになったんだろうか。俺だってそういう遊具で遊んだことはあるからよく知ってるけれど、自分のあずかり知らぬ力によって(もとは自分で回したものだけど)、流されてグルグルしているのは気持ちいいものだ。脳が、なんか、なんにも考えられなくなってぼうとする。気持ちよさと気持ち悪さが一体化して、分離してハム蔵と回し車と同じようなことが起きて、そうして急に眠たくなる。ようするにハム蔵は回転させられることにキマったのだ。妙な遊びを覚えたなと思ったけど、これはハム蔵が同時の研究と経験で獲得したのではないようだった。なぜならハム蔵よりこれを先にしていたハムスターを知っているから。かわいいハム太郎。ハム蔵に食べられちゃったハム太郎ハム太郎はちゃんとオスだった。これも死んで埋めるときに初めて気がついた。
 ウォール・マリアによって人々は結束し、ハムスターを飼い始めたあたりから綻びというか、目に見えてわかる糸のようなモノが見え始める。一つは「壁」。あんなにみんなを一つにした壁だったけど、やっぱり外の世界に出たい人もいるらしく、いたみたいで、現れた?壁を登ろうとするウォールクライマー達の登場が一つ。もうひとつは壁が急に現れたように、大歩危あたりにひっそりと空いたでかい「穴」覗いても覗いても深い深い穴が空いてから、娯楽に飢えている人々はその穴を覗きにこぞって大歩危に向かっていった。直径数100メートルもあるだろう大きな穴は、親しみを込めて「おで穴」と呼ばれた。最初こそ物珍しさにいって、どうせそれもすぐ飽きるだろう(だってただのでかい穴だ)と思っていたけれど、それがどうしてか穴を見に行った人たちが全然帰ってこない。近所に住む小村(おもれ)一家や、親戚の中間(なかつま)のオッサンたちも子連れで日曜日に遊園地にでもいくみたいにオンボロの軽に乗っていったきり、近所の家に人が戻ることはなかった。みんな、穴に落ちたんだと思った。電話で確かめることもできないから行方はわからないなと思っていたけど、ある日小村一家から手紙が届いた。そういえば年賀状というものだったのだろう。手紙によるとみんな大歩危で元気でやっていること、でもそっちにはもどるきはないこと、穴の近くには人が増えて大歩危小歩危あたりはそれなりに大きな街ができていること、なぜ帰る気がないのかについてはどうしてかは誰もわからないこと。わからないのは俺だけじゃないようだった。穴のことが少しきになったけど、ハム蔵をおいていくわけには行かなかったから相変わらず家で過ごした。穴へ行った人々の家に残されたハムスターのことも想った。
 一方、壁を登り始めた人々のことを政府は止めることはしなかった。なぜなら壁が勝手に、それを止めるから。ウォール・マリアは多分山よりもでかいから、それは山を登るよりも辛いことになる。それに山は坂で登れるけれど、壁は垂直に、雲みたいに、登るしかない。もしくは身体を水みたいにして……。政府が面白がって壁に登る人々を映しだし、それは毎日のようにビジョンに流れる。娯楽が少ない人は生活しながらたまにあれどうなったの、と思い出すようにビジョンに映るクライマーたちの様子を見て、たまに落ちて死ぬものがいた。落ち際というのもしっかりビジョンは映してくれるので、高い高い壁から真っ逆さまに落ちていき、地面に激突して、ほとんどバラバラになる。血濡れた骨。肉。皮。かわいいハム太郎。血はウォール・マリアをも濡らし、彼らはそうして壁と一体化した。
悪い遊びを覚えてからハム蔵はもう回っては倒れ、回っては倒れる。回っては倒れる。それくらいしかしなかった。大好きだったひまわりの種はもう大好きじゃなくなったのかもしれない。もうハム蔵は、もしかしたら長くはないのかもしれないと思った。思った後、どうするかと思った。ハム蔵は回し車を回して、たまにひまわりの種を食べて、脱出を試みではやめて、深夜に俺の耳を塞ぐ。ハムスターらしかったあのふくふくした饅頭みたいな身体もなんだか痩せてきた。痩せたほうが流体感がなくなるというのは、初めて知った。痩せたのは皮肉にもかわいいハム太郎を食べてからということになる。悪い遊びを知ってしまったから。でもそれは本当に悪い遊びなのだろうか。ハム蔵が我が家に来て、家の狭さに絶望して、外を夢見て、身体を水みたいにして、饅頭みたいな身体をギュウギュウ絞って、量子の気まぐれに頼るみたいに、回し車に祈ったみたいに。結局、ネオ四国とかいう馬鹿げた箱庭も、俺が作ったハム蔵のケージも同じだった。壁があるとか、出られないとか、出ようとしているところが面白いとか(現に、水みたいにしているハム蔵は確かに面白かった)、なんかそういうところではない。悪い遊び、俺も悪い遊びを知っている。知っているから、俺は食べられたハム太郎のことがかわいくてかわいくて仕方なかった。ハム蔵に食べられた、変な回し車の遊び方をするハムスターのことが。人々はウォール・マリア、でかい壁、人々をまとめたが殺しもしたでかい壁、そしてでかい穴、おで穴と呼んでいる人々を惹きつけ家に帰さないかわいいかわいいでかい穴、そのどちらかにご執心だった。そして俺はハム蔵をポッケに入れて外へ走った。
 結局、ネオ四国が最終的に滅びたのは壁を登る蜘蛛たちでも、穴に人々が吸い込まれたからでもなかった。どちらもそんなことで人は変わらないし、人が変わったとしても社会は変わらなかった。ウォール・マリアはサンポートタワーが巨大な爆弾となってウォール・マリアの一部を連れて爆発し、帝国は終わりを迎えた。人々はいっとき熱狂を帯びていたが、ネオネオ四国になったところで人々の生活もきっと変わらないだろう、と予感めいたものを感じていた。ハム蔵はまた以前の活発さを取り戻し、また回し車を自分の足で回すようになった。ハム蔵が回し車を回しているとき、俺もまた回し車で走ることにした。ネオ四国時代の運動不足は嘘のように俺の体調も改善され、体格もがっしりとしたみたいだ。ネオ四国は暗黒の時代として後世に語り継がれるだろうが、一部の人にとって、そして俺にとっても「まぁ悪くないんじゃないか」と思えるところもたくさんある。ハム蔵と出会ったこと、こうして一緒に生きていることもその一つだ。運動した後、水みたいになる柔軟を終え、回し疲れてぐっすり寝ているハム蔵の元へ寄り、少し大きくなったケージを開ける。一匹のハムスターを落とす。かわいいハム次郎くん。どうか、ハム太郎そしてハム蔵が俺のことを許しませんように。

2020/06/14

道路のへりで縄跳びの練習をする兄と妹、見守る母と休日の父がいた。どうやら兄は二重跳びが上手くできないらしい。妹は上手に跳ぶのに。それで母親は兄を根性がないと責め立てている。信号待ちの間眺めていると、妹に比べて兄は跳ぶ姿勢がぎこちない。どう見ても上手く跳べなない理由はそこなのだが、すぐに疲れたと音を上げる兄を見て母親は根性論だけを振りかざしていた。休日の父はさり気なく母親をなだめつつ技術指導を試みていたが母親の耳にはまるで届いてない様子であった。

これぞ再生産。

夢2020-05-05

同時多発的な偏執的犯罪(重いものから軽いもの、ひいては犯罪に至らないものまであった)が起こり始め、各々の犯人が何故それに執着するに至ったのか紐解きながら犯人を特定していくことを始めた俺だったのだが、ある日彼らの脳に決して消えぬスティグマを焼き付ける存在がいることが判明。偏執者を追うと共にスティグマンをも追い始めた俺はとうとう執着の偏執をスティグマンによって刻まれてしまうのであった。

昨日読んだ鰹の刺身と風俗嬢の話題が割と刺さっている。
anond.hatelabo.jp

自分に都合が良いかどうか、または被害を被る相手に共感しやすいかどうかが違うだけであって、善悪の差はないと俺は思う。

ふじぽんが同じような方向で丁寧に書いていて共感値高め。
fujipon.hatenablog.com

この話題自体は俺の中ではこれで終わりなのだけど、そんなことよりも俺は大衆(ここでははてなブックマーカー)の反応が気に食わない。
b.hatena.ne.jp

具体的にどれがとは書かないし数が多いので書けないが、冗談みたいなコメントが沢山並んでいる。そういうものも少なからずあるだろうとは思ってブコメページを開いたら思いの外そういうものばかりだったので驚いた。年々薄れてきたはずの世間への期待、世の中は割と思い通りになるという思い上がりがまだこんなにも自分の中に残っていた。こういうものの中でこれからも生きていくことを思うとうんざりする。

最近はことにつけ「他人の言うことは聞く必要がない」と思っている気がする。極々一部のホワイトリストを通過した人の声にだけ耳を傾けていればそれで良いのではないか。ただ落胆して終わるくらいなら、端からマスのコメントになど触れないことが上手い付き合い方なのではないか。そんな風に思っている。

一方で、こうして偏屈ジジイが完成されていくような気もして、自らその不吉さ漂う流れに身を任せることが恐ろしくもある。ここでブレーキを踏むのが良いか、同輩となることに甘んじて大衆界から偏屈ジジイ界へと地獄渡りをするのが良いか。来週もキリコと地獄へ付き合ってもらう。

 玉ねぎが冷蔵庫の中で育ち、芯が伸びてネギになりかけの姿って怖くないですか?人参から葉が生えた、とかでもいいんだけど。普段お世話になってる野菜の姿からはかけ離れたというか、普通に腐ってもああ腐ったなで終わるんだけど、なんか予期せずに勝手に育たないでくれという気持ちなのかもしれない。まだ腐ったほうがマシかもしれない。B級ホラーでトマトが襲ってきたりする映画もあるけど、同じ植物属性で考えると、買ってきた玉ねぎが次の日にはもう育ちすぎてネギができてるみたいなシチュエーションとか怖くないですか?お待ちしてます。
 中学生の時ぶりにあった同級生とかが、久しぶりに見るとめちゃデカくなってて怖いとかもある。背とか伸びててなんかアカ抜けてるし、会ったときにオッスなんて言ってくるの。お前そんなだっけとか思うけど、俺も多分デカくなってるのでオッスーとか返したりして、だけど別れたあと家でそいつと昔中学で話したときの記憶を出そうとしても、全然そいつと話してる自分が思い出せなかったりする。ほんとにそいつはそいつで俺は俺として話してたのかといわれると怪しいし、中学のとき同級生だったそいつというのは冷蔵庫の奥に眠っている玉ねぎと同じで勝手にデカくなったときに見ると不気味なんだけど、俺も俺としてなんかそいつが買ってきたときの玉ねぎのあの新鮮な感じのときのことは思い出せないし、ちょっと芯が伸びたくらい、なんなくくえるよなとざっくり切ってカレーでも作ろうか、とそうして生活は続いていくのであった。

おさんぽ

 街はでかい壁に囲まれていて、そこから出ることはできない。ただ空を鳥が飛ぶだけである。というと小説の世界みたいだけれど、街にはもう見えない壁が多分建っていて、邪魔な人間もおらず食い意地の張った鳥たちには暮らしやすい季節になったようだ。世に倣って家で引きこもりソングを歌っていたいところだけど、そういうわけにも行かないようで毎日人の少なくなった電車に乗って労働に勤しんでいる。みんなマスクをつけて歩いているので、表情も見えないなと思ってみたがそういえばいつも人の顔なんて見ないくせにマスクのおかげで逆に顔のことを気にかけるなんて逆説的で面白い。道を歩いているとランニングしている人をみかけることが多くなった。家にいがちで運動不足を解消するため、と人は言うだろうが多分いてもいってもいられなくなるからだろう。「散歩」の語源を調べてみると、一説では大昔の中国で流行った「五石散」という漢方(ドラッグ)の中毒症状で、全身が滅茶苦茶熱くなるのを発散させるために歩き回っていたらしい。身体が熱くならないと薬が身体に溜まって毒になるため歩いて身体を熱くしたみたいな話も書いてあったが、共通するのは身体の熱やら毒的なものを散らすために歩き回ったということだ。今でこそ散策とか気晴らしみたいな意味もふくまれている「散歩」だけど、一説には過ぎないが元々はドラッグにやられてそのへんをうろちょろ歩いていたのが元である。だからなんだというわけではないが、この身体に溜まった熱とかが、このままたまり続けると死んでしまうんじゃないか、みたいな感覚は俺にもわかるような気はするし、もう趣味とか娯楽とかそういう楽しみを求めてではなく、ただ、どうしようもなく、痛みに耐えかねて歩くみたいな五石散中毒者のような散歩をしてしまっても、それはもう仕方のないことである。だって歩かないと何か死んでしまうから。毒に似た、熱に似たものによって。

移動

コンビニの自動ドアをくぐって夜の暗い道路と空を見ていると、このままバイクにでも跨ってどこかへ走りたい気持ちになった。以前はたまにそういうことをしていたのだけれど、ここ数年は機会がなかった。行き先はどこでも良いので、道中に地図でも眺めて適当にでっち上げる。大事なのはどこへ行くかではなく、どこかへ行くことなのだ。出来るだけどこへ行くのかわからない方が良いし、どうやって行くのかもわからない方が良い。本当は自転車でも歩きでも電車でも良いのだけど、このまま適当に進んでいたらどこに行き着いてしまうのだろうという不安と期待の隙間を縫いながら進んでいくのにはバイクくらいがちょうどよい。ひた走った後の満足と半ばの後悔に浸りながら、その後のことを考えるのも好きだ。ゆくゆく帰り着いた頃を思うと、ちょうど無計画な山行に一段落付けて野営する時と同じ、安心と充足感を予感することができる。巣を離れた動物もきっとこんなふうなのだろう。

著名人に政治色を出してほしくない人の気持ちについて新しく一つ、よりしっくり来る仮説が浮かんだ。彼らは自分の中で持っている対象者のイメージが崩れることを嫌っているだけなのではないか。こういうキャラクターの押し付けは政治の話題に特有というわけではなく、いろんなシーンで見られる、老若男女に普遍の振る舞いであるように思う。しかもあらゆる関係性の中で行われる上に、対象は人に限らずモノとかコトになる場合も珍しくない。これをヒト一般のありふれた振る舞いと捉えるのは決して行き過ぎた解釈ではないだろう。これを指摘する文章を書いている今現在まさに私が行っていることも根本は同じで、これの根本にあるのは「私は正しい」という感覚に他ならない。
この感覚自体や正しさについては保留するとしても、(特に特定の目的下で)他人に正しさを示すことについてはシンプルな判断基準で最適な結果が得られる雰囲気がある。しらんけど。そもそも特定の他人に向けて自分の正しさを示すことが有利に働く場面は少なく、意外と意味がないか不利に働く場面が多いと思うので、①目的を明確にすることと、②その目的を達成する上で正しさを示すことが有利に働くのかを考えるだけで良い。ネットでひっそりと漫画家があーだこーだとぶーを垂れるだけだったら別に好きにすればいいのだろう。身の回りの人間にやるよりマシだろうし、適当に気持ちよさを得てガス抜きできるから丁度いいのかもしれない。

結局の所身も蓋もないことしか言えないので、もっと根本的な部分、自分の正しさを過信してしまうことと正しさを誇示してしまうことについて保留せずにあーでもないこーでもないと考えていた方が余程建設的なのかもしれない。

最後に愚痴るが、個人の日記レベルでさえ作文をするときに断言することが求められる風潮はクソ。どうでもいいだろそんなこと。

2020/04/05

漫画家が首相を風刺する絵をSNSにアップロードして炎上しているらしい。漫画家だけでなく著名人が政治にふれることを嫌う人が多いけど俺は特に何も思わないので、妙なものを見る目で眺めている。政治思想に偏りがあるとか特定の主張があるから対立関係にあることを知って落胆するとかいうわけではないように見える。波風が立つのが嫌なだけなのかな? 思えば国政とか大きい話だけでなく、会社とか地域の集まりとか親族みたいな上下関係のある人の集まりでも似たようなことはあるような気がする。身近な範囲で和が乱れるのを嫌うのはわかるけど、国政の話で、それも赤の他人の著名人がちょっと風刺画を描いた程度のことで自分に影響があるほど波風が立つようなこともないと思うから、全然違う理由なのかもしれない。上の人に逆らっちゃダメだから逆らわないし、自分ができないことを他人がするのもだめだから槍玉に挙げる……みたいな動機のほうがしっくり来るような感じもする。
そんな風に思わない人もたくさんいると思うのだけど、どの程度の割合の人がどう感じるのかとか、感じ方の違いがどこに由来しているのかが気になるけど、調べ方がわからないで誰か調べてくれるといいなあと思っている。

そんなことよりもコロナでみんな家にこもってネットばかりしているので回線がパンクしていて現代のインターネットを楽しむには無理が出てきているので困っている。みんなもっと人生ゲームとか将棋とかオセロみたいなことをやって時間を潰してほしい。ネット環境ってすごく充実していると思っていたけど、実際はそうでもなかったんだなあと2020年になってようやく気がついたのであった。

最近の出来事2020/01/20

ホームセンターで買い物した

・窓に貼る用のプチプチ
正確には窓に貼る用ではない普通のプチプチを買った。窓に貼る用のもあったのだが値段の割にしょぼく、しょうもない柄付きで気に食わなかったのでスルーした。ただのプチプチはひたすら安かった。
早速貼ってみたが、なんとなく効いている感じはする。劇的に効いている感じはしない。相変わらず部屋の中でも厚着している。たまにホテルとか人様の家に行くと暖房をつけていなくても暖かく、家自体の断熱がまともなことの大切さを痛感する。早く人間になりたい。

・かもいフックと突っ張り棒
フックを2つ買ってそれに棒を掛けて衣類をかけている。衣類を畳んで片付けるとかは面倒臭すぎて無理なので、ハンガーのままかけられる場所が増えて人間レベルが上がった。
そのうち棒が折れそう。

・あったかパンツ
膝上からヘソ辺りまでカバーできるやつがあったので買って履いている。暖かくて人間レベルが上がった。


その他

・部屋を片付けた
小綺麗なゴミ捨て場程度の状態から一応人間の部屋くらいになったので人間レベルが上がった。ついでにものの配置も変えたので気分転換にもなった。
部屋がきれいになった途端人間の暮らしが取り戻されたので、部屋をきれいに保つことは睡眠と食事の次に優先して行うべきだということが明らかになった。結果的に睡眠と食事の質も改善されるので部屋が優先順位一位かも知れない。放っておいても寝るし飯を食うが、部屋は片付かないので。

・大声健康法
種々の研究から大きめの声を出すと精神衛生の改善と維持にポジティブな効果があることが明らかになった。メンタルヘルスの向上は結果的にフィジカル面でも健康増進に寄与することは既知のところである。よくよく思い出してみれば馬鹿みたいに声の大きい人間は全員なんとなく元気そう。
カラオケで大声を出してストレス解消!みたいな話はよく聞くが、別にカラオケで大声を出す必要はなくて、普段から大声を出したほうがいい。踏切前で電車が通過しているときでも問題なく会話できる程度の声量を常に出すのが好ましい。
おまけとして、ジジババとの会話にストレスがなくなる。
うるさいなどと言われることも少なくないが、大声で黙らせられるので特に問題はない。

エッセンシャルオイル
生活の木とかで買っていたが高いので安く買えないか調べたところ、iherbで安く売っていたりするらしい。サプリメント以外もあるんだな。ついでにスパイスとかも安く買えるらしい。

・飯
長らく気力を失ってコンビニで豚の餌を買って食べていたが、人間レベルの向上に伴い自炊の気力が戻ったため近所の業務スーパーで肉とか安い野菜を買い始めた。健康状態と人間レベルが急激に上がりすぎた結果処理落ちが発生して、1ターンに2回行動できるバグ技が使えるようになった。

・掃除機

ググったら古代メソポタミアのすべてを飲み込む神様が元ネタらしい

滑稽クラシカル街歩き

ケータイに入れている音楽を聴く機会のめっきり減った昨今、ことクラシックカテゴリーの音楽に至っては年に数回再生するかしないかといった有様である。そんな貴重な数回のうちの一回が今日、というよりも今なのだが、あったのでその記録を残しておく。

 

俺が音楽を聴くときはおおよそ次の二通りのうちいずれかの聴き方する。今のテンションに合った音楽を再生するか、目的のテンションに近い音楽を聴くことで自分をその状態に持っていくかだ。ただし、この聴き方をしている限り、基本的にクラシック音楽を再生する機会は訪れない。そんなテンションにはならないし、そんなテンションになりたくもないからである。ウィンナーワルツなんかを平静から聴いている人間ははっきり言って精神異常者に他ならない。百歩譲ってワルツは良しとしよう。交響曲、どんな顔して聴けと。そもそもああいうものは我々のような庶民が日常の中で聴くようにはできていないので、このような感覚を持つことは何ら不思議ではないのではなかろうか。それでもしかし、聴くのである。私も。クラシカルミュージックを。

 

どういうときに聴くのか? 精神に異常をきたした時だ。

 

というところまで書いて電車が目的地につきました。さようなら。

scrapboxを作った

https://scrapbox.io/gx4/
特に必要のないscrapbox 作った。書く内容は決めていないけど、ブログと合わせて著者募集中です。
ちょっと前のTumblrみたいに、面白いproject見かけると延々と見ちゃう謎の中毒性がある。リンクをぴょんぴょんする楽しさもあるので最近のブーム(すぐ飽きる)。

「人生の8割損してる理論」と貧しさについて

フジツボの良さがわからないなんて……あなたは人生の8割損していますよ。

今日まで生きてきて何度言われたかあるいは目にしたかわからない言葉であるが大半は冗談半分で言ってるだけなのでまあいいとして中にはほとんど本気であるいは完全に本気でこういうことを言う人だっているだろう。私にしたところでちょっと本気でこういうことを思うことはある。自らの経験に照らしてそれ以外に同じ程度あるいは性質の充足感をもたらすものが見当たらないときにこういうことを言うわけだが実際のところこれは諸刃の剣であることにふと気がついた。だって他人がそれを知らないことの貧しさを指摘する一方で、同時に自分がそれしか知らないことを指摘する言葉でもあるのだから。言われた側にしてみれば知りもしないし興味もない上にある種の見下しを多分に孕んだ言い回しを以て己の人生が如何に貧しいものであるのか論われているわけだからこれはもう心の中でカウンターラリアットを食らわせに来ること間違いなしだろう。ご愁傷さま。

ああ、しかし、なんと貧しいことだろう。私は知らない。夏の終りから冬が来るまでの間、黄昏の季節を彩るジャズに耳を傾けているときの充足感を得る方法が他にあるだろうか。

充足感というものがこれほどまでに多様なものでなかったならどんなに良かっただろうか。種々の感情が絶妙なバランスでブレンドされて生まれる満ち足りた気持ちというのは一個人の中にさえ数え切れないほどの種類がある。それが人の数だけ、それも様々のやり方を持ってして達成される多様さを以て存在しているのだ。無限とも思える広がりを持った充足の海の中で個人が見渡し体感することできる領域はあまりに狭い。一生を賭して享楽の道を歩んだとしてもそのほとんどすべてを我々は知ることができない。来し方行く末の人々が心を浸した悦の泉を飲み干すことは何人を以てしてもかなわない。そういった意味で、我々は皆貧しき徒輩に他ならぬのである。

おわり

「死ぬなら人に迷惑かけずに死ね」

 と言う文言について。たまにSNSとかで観る気がするのだけど、恐怖を感じる。人身事故に遭遇して電車の遅延で迷惑を被って怒りをぶつけたい気持ちもわからんでもないが、今から死ぬことを決めた人間(もしくは死ぬことなんて決めてもいないのに行為に及ぶ人間もいるだろう)が周りの迷惑とか考える余裕があると思うのだろうか。「私は今から死ぬけど、みんなに迷惑はかけたくないからチリ一つ残さず自殺しますね」なんていうとでも思うのだろうか。我々は生きてるだけでどこかの他人に対して迷惑だし、死んだとしてもその後処理を他人に預ける迷惑の塊だ。死後処理も葬祭も倫理と慣習に守られているだけで本来は面倒くさくて言ってしまえば迷惑なのだ。それ知らないでか「死ぬなら人に迷惑かけずに死ね」と簡単に何かいい事言いましたよ~みたいになっているのが本当に恐ろしい。人の死に対して冷たすぎる。別に見知らぬ人間のすべての死を悼め、とも無理心中を起こした人間を叩くなともいわないけれど(それはまた別の話だ)、お前が吐いた言葉は呪いとなって返って来ることを忘れずにせいぜい他人に迷惑をかけないように生きて、そして迷惑がかからない素晴らしい死を遂げてくださいね。