「人生の8割損してる理論」と貧しさについて

フジツボの良さがわからないなんて……あなたは人生の8割損していますよ。

今日まで生きてきて何度言われたかあるいは目にしたかわからない言葉であるが大半は冗談半分で言ってるだけなのでまあいいとして中にはほとんど本気であるいは完全に本気でこういうことを言う人だっているだろう。私にしたところでちょっと本気でこういうことを思うことはある。自らの経験に照らしてそれ以外に同じ程度あるいは性質の充足感をもたらすものが見当たらないときにこういうことを言うわけだが実際のところこれは諸刃の剣であることにふと気がついた。だって他人がそれを知らないことの貧しさを指摘する一方で、同時に自分がそれしか知らないことを指摘する言葉でもあるのだから。言われた側にしてみれば知りもしないし興味もない上にある種の見下しを多分に孕んだ言い回しを以て己の人生が如何に貧しいものであるのか論われているわけだからこれはもう心の中でカウンターラリアットを食らわせに来ること間違いなしだろう。ご愁傷さま。

ああ、しかし、なんと貧しいことだろう。私は知らない。夏の終りから冬が来るまでの間、黄昏の季節を彩るジャズに耳を傾けているときの充足感を得る方法が他にあるだろうか。

充足感というものがこれほどまでに多様なものでなかったならどんなに良かっただろうか。種々の感情が絶妙なバランスでブレンドされて生まれる満ち足りた気持ちというのは一個人の中にさえ数え切れないほどの種類がある。それが人の数だけ、それも様々のやり方を持ってして達成される多様さを以て存在しているのだ。無限とも思える広がりを持った充足の海の中で個人が見渡し体感することできる領域はあまりに狭い。一生を賭して享楽の道を歩んだとしてもそのほとんどすべてを我々は知ることができない。来し方行く末の人々が心を浸した悦の泉を飲み干すことは何人を以てしてもかなわない。そういった意味で、我々は皆貧しき徒輩に他ならぬのである。

おわり