toxic

 最近、中学生のころに耳にした以来、ずっと曲名がわからなかったものの正体が十数年後しに判明した。ブリトニー・スピアーズの「トキシック」という曲なのだが、メロディがなんだか怖くて印象に残っていたのか、知らない曲なのにたまに思い出してはもやもやしていた。かといって知らない曲を調べることもできないし、わからないまま放置していたのだけど、ある日なんらかの機会でこの曲が流れ曲名を調べたときには、長年の謎がとけたによる歯糞が取れたみたいな気持ちよさがあり、まさに体の中の毒が消えたようだった。しかし、これからはもう曲のフレーズを思い出してはもやもやすることもなくなるのかと思うと少し寂しくもある。後に残っているのは幼い頃に洋画劇場かで観た映画のタイトルを知ることくらいなのだが、子供の頃から持っている謎という毒を保持しておきたい気持ちが芽生えたので、この毒は「解毒」されないことを祈る。

捨てろTVPC

アイデンティティの話を書こうとしたけど真面目にやると複雑で大変なのでもうぶん投げて雑に書く。
セルフアイデンティティが共同体とか周りの人間が自己に与える属性に大幅に準拠するものだとしてメディアとかSNSみたいな他人もしくはマクロなシステムの意思や思惑、原理によって回っているものにどっぷり浸かった生活をしているとその中で形成されるアイデンティティは本当にお前なのかみたいなことを俺は言いたい。タピオカ吸って喜んでるお前に言ってんだぞ俺は。アイデンティティがいつの間にかデザインされてたみたいな話はずーーーーーっっと昔からあるんだろうけどそんなもん関係なくそういうのが今もある以上俺も先達の言を焼き回していく。便利に作られた自意識の中で生きていく虚しさを思わずにいられますか?
あとこれもキモいなって思うのがむしろ逆にアイデンティティの材料を意識してかしないでか自分で集めてきてなりたい自分になっちゃうやつ。特にWeb界隈は摂取する情報を割と自由に選択できたり、似た種類の虫が集まってクネクネしていたりするのでそういうことがやりやすい。そもそもWeb以前から本だの映画だの装いだのの小道具で私を演出することはあるあるだったわけだが、そういうのってファッションであって演出することとその中に完全に没入することとではまた違うことのように思う。違うよな? ファッションでやってる分にはまだいいとして、いつの間にか装備品の呪いにかかって常に混乱状態の般若の面装備した女戦士みたいな存在の人はもうマジで一度自分を見つめ直して教会行くなり誰かにシャナク唱えてもらうなりしたほうがいいと思う。一人でひっそりやってるならともかく人里に降りてくると討伐対象になります。さようなら。

ドブに落ちて死ね

我が郷里である岡山にて、ついに人食い用水路への対処としてフェンスの設置が始まったらしい。
togetter.com

岡山県内に張り巡らされた用水路は何でも直線距離にして4000kmほどあるとか。YahooNewsによると2013年から2015年の間に1150件近い転落事故が起き、うち80件近くで人命が失われたらしい。

実際私の周りにも用水路に落ちたことのある人間は沢山いたし、私自身用水路に落ちた経験がある。記録されている転落事故の件数は氷山の一角でしか無いだろう。知り合いの知り合いレベルで人が落ちて死んだという話もたまに聞いた。死にはしなかったものの祖父の姉の夫が用水路に落ちていて数時間後救出されたこともあった。

更に言うと岡山の用水路は人だけでなくその他の動物も殺す。犬やイノシシが用水路の中で身動きが取れなくなりくたばっていたという話は珍しいものではなかった。岡山の用水路は生きとし生けるすべてに向けて開かれたリーサルディッチなのだ。

そんな危険物が今日の今日までそのままに放置されていたのは県民や県を訪れる人間にとって恐怖でしかない*1*2し、それが改善される*3ことは人々に安堵と平穏をもたらすのだろう。今後用水路の中で悲惨にも最期の時を迎える人が少なくなることを考えると嬉し涙が止まらない。

しかし、しかし、しかしながら……消えゆく危険な用水路とそれがもたらす残念な死を思うと私は心の何処かに淋しさを覚えずにはいられない。それは多分、以下に引用する事柄が関係しているのだろう。

運がいい人間、強い人間には長寿社会はとても莫大な恩恵をもたらす一方で、強く慣れない人にはまだ突然死の要素があった時代のほうがある意味では優しさがあったのではないかとすら思わされてしまう。

感染症などのSudden death(サドンデス)はある意味では平等だった。
弱者は弱者で、良くも悪くもゲームから降りられた。
強者も等しく執行対象となるから、ゲームバランスの調整が起きて、強くない人間にもワンチャンあるんじゃないかと思わせてくれる何かがあった

https://blog.tinect.jp/?p=60768

サドンデスが無い、ということはメメントモリが無い、ということでもあり。年収の問題だけでなく世界観の次元でも結構これはつらいんじゃないかと思う。かといって、「自主退場」なんてこともできないし

https://b.hatena.ne.jp/entry/4670917694982343490/comment/p_shirokuma

ドブに落ちて死ぬほどの不条理があるだろうか*4? 愛する家族や恋人、友人、ペットなんかがドブに落ちて死ぬことを考えると心が馬のクソで満たされたような気持ちになる。頼むからみんな、ドブに落ちて死ぬのだけはやめてくれ。そんな理不尽は許さない。

その反面、人はドブに落ちて死ぬくらいの世の中が身の丈にあっているとも思う。日常の中にぽっかりと口を開けた死が同居していることはむしろ、我々の生を活きたものにしてくれる。

不条理の極北たる死から目を逸らさずに直視する機会があってこそ、セイなるものが輝きを保てる

https://gx4.hatenablog.com/entry/20190709/1562616125

先日の記事では弔いの在り方に言及する中で同じことを主張したが、弔うための死が不条理であれば死を思う気持ちもより一層強まるだろう。id:p_shirokumaが言うように突然死の機会はそのままメメントモリの機会でもある。その機会が失われた世界で生きていくのはしんどい。引用したブコメid:p_shirokumaは「世界観の次元でも」と書いているけれど、私にとってはむしろそっちが本題である。実際の所、言及先の記事で扱われている主題の都合上このように書いただけであって、氏もやはりメメントモリの剥奪された世界観をこそ主に憂うタイプの人ではないかと思う。私の中では彼はそういう人間である。違ってたらすみません。

言いたいことは言った*5ので最後にひとことだけ。「勝手にてめーでドブに落ちて死んでろ」みたいなことを言われると傷つくのでやめてください。

*1:実際の所、岡山県の行政と岡山県民にとってむき出しの用水路は当然の風景であって、なんら恐怖を与えることはない

*2:致死性の用水路が今日まで放置されてきた背景には理由がある。豪雨の際に排水路としての役割を果たす用水路はその役割のために小まめなメンテナンスを要するものの、行政が全体を維持管理することは予算と人員の都合上難しい。用水路が多すぎるから

*3:実際の所、フェンス設置などの対策が取られる用水路は全体のうちごく一部に過ぎないだろう。用水路の数が多すぎるから

*4:策を講ずることで防止できるのだからむしろ不条理ではないのではないか? というツッコミも想定されるが気力の問題でここでは言及しない。そっとしておいてほしい

*5:ドブに落ちて死んだハンス・ギーベンラートのナンセンスな死にっぷりにも言及したかったけど力尽きた

スカーニバル

もはや、屍肉しか残されていない祭り。美味しいところはもうみんな食べられてしまった。祭りの後の、後の祭りだ。喧騒なパレードは終わりを迎え、遅れてやってきた鳥たちは、徒党を結んで腐肉を漁り、骨の髄まで平らげる。仮面をつけた不愍なスカベンジャーどもに捧ぐ。スカベンジ・カーニバルを始めよう。我々以外はもう行ってしまった。鳥葬の儀を執り行い、屍肉の山に最後の祈りを。

死体は鳥に喰わせろ

神聖なるものの根源には死とか病といった共同体を損なうもの、穢れと呼ばれるものへの恐怖がある。何か悪いことがあるとお祈りして回復を願うし、何もなくてもそれはそれで何も悪いことが起こらないままでいてくれとお祈りする。時には何もなかったことに感謝したりする。死を招く飢えはみんな恐れるので、人に食べ物をもたらす土とか水とか太陽みたいなものはよく神聖視されていたりするのだ。死体は生きていないもの、すなわち死であるのでアンチセイクリッドそのものと看做される。そんな穢れの塊を神聖な土に埋めたり水に流したり火で焼いたりするのは罰当たりも罰当たり、神聖性への挑戦に他ならずひいては共同体への反逆行為であるので絶対にタブーとされていたのは昔のイランとかインドのお話。ゾロアスター教徒の間では死体を鳥に食わせたり天日干ししてカラカラに干からびさせたりするのが流行っていたようである。今日では死体を鳥に喰わせるといえばチベット仏教だが、こっちは死体を天にお届けしたり最後くらいは喰う側から喰われる側に回っておこうみたいな意味でやっているらしい。どちらにせよ現代の日本に暮らす我々には神聖だの穢れだの自然への布施だのといった意識は希薄である。日本で火葬がスタンダードなのは歴史的にはいろいろ経緯があるにせよ、我々にとってはただの慣習、あるいはそれを無視して和を乱さないことのためでしかない。私にはこれがひどくつまらないことのように思えて仕方がない。つまらないというのも少し違うように思えるが、ぴったり座りの好い表現も思いつかない。ひとまずつまらないし、もったいないのだ。
なぜつまらないのか? 死の実態は依然我々に重くのしかかる最悪のしかし不可避の結末であり続けているのに、それがあまりに軽く、あるいは小奇麗に扱われすぎているからではないか。もちろん人が死ねばオイオイと涙を流して故人を悼んだりするのだけども、死んでから弔い完了までの過程があまりに淡々としすぎていないだろうか。まるで電源の入らなくなった家電製品を業者に連絡して回収してもらうかのように死んだ人間が処理されていく様にはむしろ恐怖を覚える。天下の人間様がそんなことでいいのだろうか。当たり前のように犬猫を玩具が如く飼い殺したり食べるためだけに動物を産み育てては殺したりあまり心が痛まないし繁殖させやすいからと実験用マウスを大量生産するのが当然となった頂点捕食者たる我々人間様の死があんなにも味気ないものであって良いのだろうか。普通に楽勝で生きていける我々にこそ、人が死んだ時くらいは死というものに思いを馳せたり全力で穢れに恐れ慄いたりする時間があっても良いと思う。不条理の極北たる死から目を逸らさずに直視する機会があってこそ、セイなるものが輝きを保てる。そういう意味で、きれいにパッケージ化された人の死とその後の手続というのはつまらなくまたもったいない。であればいっその事、山と川と太陽と猛禽共に委ねられる人の死と祈りというのも悪くないのではないか。そんなことを考えている。