死体は鳥に喰わせろ

神聖なるものの根源には死とか病といった共同体を損なうもの、穢れと呼ばれるものへの恐怖がある。何か悪いことがあるとお祈りして回復を願うし、何もなくてもそれはそれで何も悪いことが起こらないままでいてくれとお祈りする。時には何もなかったことに感謝したりする。死を招く飢えはみんな恐れるので、人に食べ物をもたらす土とか水とか太陽みたいなものはよく神聖視されていたりするのだ。死体は生きていないもの、すなわち死であるのでアンチセイクリッドそのものと看做される。そんな穢れの塊を神聖な土に埋めたり水に流したり火で焼いたりするのは罰当たりも罰当たり、神聖性への挑戦に他ならずひいては共同体への反逆行為であるので絶対にタブーとされていたのは昔のイランとかインドのお話。ゾロアスター教徒の間では死体を鳥に食わせたり天日干ししてカラカラに干からびさせたりするのが流行っていたようである。今日では死体を鳥に喰わせるといえばチベット仏教だが、こっちは死体を天にお届けしたり最後くらいは喰う側から喰われる側に回っておこうみたいな意味でやっているらしい。どちらにせよ現代の日本に暮らす我々には神聖だの穢れだの自然への布施だのといった意識は希薄である。日本で火葬がスタンダードなのは歴史的にはいろいろ経緯があるにせよ、我々にとってはただの慣習、あるいはそれを無視して和を乱さないことのためでしかない。私にはこれがひどくつまらないことのように思えて仕方がない。つまらないというのも少し違うように思えるが、ぴったり座りの好い表現も思いつかない。ひとまずつまらないし、もったいないのだ。
なぜつまらないのか? 死の実態は依然我々に重くのしかかる最悪のしかし不可避の結末であり続けているのに、それがあまりに軽く、あるいは小奇麗に扱われすぎているからではないか。もちろん人が死ねばオイオイと涙を流して故人を悼んだりするのだけども、死んでから弔い完了までの過程があまりに淡々としすぎていないだろうか。まるで電源の入らなくなった家電製品を業者に連絡して回収してもらうかのように死んだ人間が処理されていく様にはむしろ恐怖を覚える。天下の人間様がそんなことでいいのだろうか。当たり前のように犬猫を玩具が如く飼い殺したり食べるためだけに動物を産み育てては殺したりあまり心が痛まないし繁殖させやすいからと実験用マウスを大量生産するのが当然となった頂点捕食者たる我々人間様の死があんなにも味気ないものであって良いのだろうか。普通に楽勝で生きていける我々にこそ、人が死んだ時くらいは死というものに思いを馳せたり全力で穢れに恐れ慄いたりする時間があっても良いと思う。不条理の極北たる死から目を逸らさずに直視する機会があってこそ、セイなるものが輝きを保てる。そういう意味で、きれいにパッケージ化された人の死とその後の手続というのはつまらなくまたもったいない。であればいっその事、山と川と太陽と猛禽共に委ねられる人の死と祈りというのも悪くないのではないか。そんなことを考えている。